韓国に尽くした日本人 望月 カズ
-知れば知るほど日韓が好きになる-
38度線のマリア 望月 カズ
富士山が正面に望める静岡県富士市瑞林寺の墓碑に
『日韓の孤児百三十余人を養育 三十八度線のマリアと呼ばれた
望月(永松)カズ。1927年8月3日出生 1983年11月12日没。
富士山の見えるところに眠りたいとの遺志をかなえてここに眠る』
と刻まれた人物をご紹介します。
満州でたった一人
カズは昭和2年(1927)に東京の杉並高円寺で生まれました。
父親の記憶はありません。母親は望月近衛(ちかえ)と言いました。
昭和6年(1931)、4歳で母と満洲へ渡りました。
開拓団が入植していた滴道という小さな町に移住したのです。
二人が渡った翌年に満州国が建国されます。
満州国とは、現在の中国東北部と内モンゴル自治区の半分にあたる、日本の約3
倍の110万㎢の面積を持ち、人口は約3500万人が暮らしていました。
ここに満鉄(満州鉄道)が建設され、その警備のために日本の軍人たち、関東軍が
駐屯していました。
カズの母は、親族の軍人に進められて、この関東軍相手の物品納入という商売のた
めに、満州に来たのでした。
母の商売は成功し、カズは「お嬢様」と呼ばれるほどだったそうです。
昭和8年(1933)、カズが小学校に入る直前、大変なことが起こりました。
母親が突然亡くなったのです。原因不明の不審死でした。
この少し前に、親族の軍人が人事異動で満州を離れた後のことです。
一説によると、使用人による毒殺とも言われています。
何故かというと、使用人は財産すべてを持ち出し、6歳のカズを農家に農奴として売り払ったからです。
こうして6歳にして、天涯孤独となり、通えるはずの学校にも行けないまま、満州で農奴として生きて行か
なければならなくなったのです。
農奴として他の農家に転売されたり、アヘン窟で働かされたりもしたそうです。
また、主人たちに日本語を使うことを禁じられました。
それでも幼いカズは、寝る前に「自分の名前、母の名前、日本と富士山と日の丸、東京高円寺」という大
事な言葉だけは、忘れないように復唱していたそうです。
何度も逃亡を図りましたが、その度に捕えられ連れ戻されましたが、昭和13年(1938)の冬、ついに脱出
に成功したのです。
たどり着いた所は関東軍の駐屯地でした。そこで、掃除、洗濯、などの仕事をしました。
また、それらの仕事の合間に、軍人に算数や国語などの基本的な教育を受けました。
すでに、カズは11歳になっていましたが、ここで知識をしっかりと身に付けたのでした。
愛の理髪師
戸籍のなかったカズは偽の戸籍を買っていましたが、17才の時、城津(성진現北朝鮮)で出会った日本人、
永松夫妻の援助により、形だけの養女となり、日本国籍を得ることができました。
カズは、大手の保険会社の外交員として働き、その時に、大連の理髪店の知り合いの手伝いをしました。
この時に覚えた見よう見まねの技術が、後のカズと孤児たちの生活を支えることになるとは、カズ自身も想像も
していなかったと思います。
やがて昭和20年(1945)8月15日の終戦と共に、密航をして日本へ帰国しました。
東京に戻っても身を寄せる所もなく、空襲で焦土と化し、混乱の中にあった祖国日本に対して絶望し、
満洲に眠る母の墓を探して、そこで死のうと考え、再び密航して釜山に行き、満州を目指しました。
しかし、朝鮮半島の38度線を突破できず、結局、どうしようもなくソウルに
留まることになったのでした。そこで運命を決定づけることになる「朝鮮戦争」
に巻き込まれてしまったのです。
その戦争の渦中、目前で銃弾に倒れた韓国人女性の胸に抱かれていた
血まみれの男児を救ったのです。
この出来事が、後に「孤児達の母」として生きてゆく契機となったのです。
カズ自身も孤児でした。天涯孤独で辛苦の人生を歩んできたカズにとって彼ら孤児たちに何を感じ、何
を見たのでしょうか。そして、何を心に決めたのでしょうか。この時、カズは23歳でした。
その当時、一人で生きて行くことさえ困難であった過酷な環境の中にありました。
昭和26年(1951)、カズも避難民として釜山に向かいました。釜山に向かいながら自分を助けてくれる多
くの人に出会いました。また、その途中で数人の孤児を引き受けて行きました。
釜山に着いてバラックを建て、港湾で荷揚げ作業をしなが、さらに青空床屋を始めて生活しました。
昭和28年(1953)、4年ほど居た釜山からソウルに戻ることになりました。孤児の数は16人でした。
誰からの援助もない中で、女性でありながら肉体労働を重ね、 露店での理髪業や軍手製造、豆炭売り、
時には体の血を売りながら、まさに身を粉にして働きながら子供達を育てて行っカズでした。
昭和30年(1960)4月に、ソウル市の仁寺洞(인사동)に土地を手に
入れ、「永松理髪」の看板を掲げました。ところが、その2年後、カズは、
理容師資格と身元が問われ、警察に連れていかれます。学校や職場か
ら帰ってきた子どもたちは、オンマが警察に連れていかれたことを知って、警
察所に押し寄せ「オンマ(母ちゃん)を帰せ」と泣きわめき、そのとき32人い
た子供たちは、そのまま警察署の前で一夜を明かしたそうです。
それで、警察もやむをえず釈放したのです。
この連行の一件が世間の関心を引きました。
報道によってカズを知った人やカズの姿に心打たれた人々によって、援助の手がのびるようになりました。
カズは、孤児のみならず日本に忘れ去られつつあった在韓日本人の力にもなって行ったのです。その人々
のほとんどが不法滞在者であり、苦しい生活の中で帰国を夢見ていたのです。
昭和38年(1963)、カズは理髪師資格を取り、その頃から「愛の理髪師」と呼ばれ始めます。
カズとはどんな人なのか
「私たちは知っていますよ。温室の花のようには育てず、どんな強い嵐に遭っても、耐え抜ける根の深い木
に成長させようとして下さった、あなたの深い愛を。」
これはカズの死後、残された子供達の中の一人が葬儀の時に朗読した「母に捧げる手紙」の一節です。
カズは子供達に深い愛情を注ぎました。
育て方は傍から見て、どこか乱暴なところもあったようですが、何よりも卑屈な生き
方を嫌い、決して甘えを許さないという、厳しい一面もあったようです。
住んでいた家の壁には、カズ自身が描いたダルマの親子の墨絵がかけられていて、
いつも子供達に、「転んでもダルマの如く立ち上がれ」と教えていたそうです。
また、カズの伝記『オンマの世紀』を著わした麗羅氏は、「カズが嫌悪の念を押し隠しながら、日帝の罪悪
を償う動機で韓国の孤児を育てたという人もいるが、私にはそうは思えない。彼女はきわめて直感直情行
動型の人物で、物事を計算しながら行動するタイプではない。」と語っています。
また、カズの困窮した生活を見かねて孤児院を国の公認の施設にするよう勧めた人もありましたがカズは
断じて聞き入れませんでした。それを麗羅氏は、「公認の施設になったら『オンマ』ではなく園長先生になるわ
けだ。カズは子供達から『オンマ』と呼ばれたかったのだと思う。『オンマ』とは、 韓国語でいう『母ちゃん』である。
カズを呼ぶのにこれほどぴったりする言葉はない。」とも語っています。
孤児たちと共に
昭和39年(1964)、ソウル名誉市民賞を授与されました。
翌年には、カズの書いた『この子らを見捨てられない』が出版され大きな反響を呼びま
した。これが原作となって韓国映画『이 땅에 저 별빛을(この地にあの星の光を)』が制
作、公開されました。(右の画像が当時の映画のポスター)
この映画は日本でも上映(邦題は『愛は国境を越えて』) され、多くの人々に深い感
動を与えました。
昭和42年(1967)、韓国の独立記念日に当る光復節に、カズに日本人として異例の、第一回光復賞
が授与されました。
昭和43年はカズにとって、受難の年でした。
当時40余人の子供達と暮らしていた鍾路区の仁寺洞の家が区画整理のため強制撤去されたのです。
ガレキの山の前にカズは愕然となり子供達を身に引き寄せました。テント生活を送った後、同区の楽園洞
の建物に移ることになりましたが、それはカズを「日韓親善の懸け橋」と呼び、協力を惜しまなかった日韓の
支援者の力によるものでした。日本に於いては「永松カズさんを励ます会」が発足して、募金活動を行ない、
何千という人々の善意を得て、カズと子供達は離散の危機を脱することができたのです。
昭和46年(1971)、朴大統領から韓国名誉勲章・冬柏章が贈られました。
(左の画像は、孤児たちと共に受賞を受けるカズ[当時44歳]。)
昭和51年(1976)には祖国日本で吉川英治文化賞を受賞しました。
韓国での叙勲式の時のことですが、何とカズは、いつもの普段着に下駄履き姿で現
れました。ビックリした大統領府の人々が、せめて靴だけでも履き替えるように頼むと、
カズは「私は他に何も持っていません。これで駄目なら帰ります。」と不機嫌になったの
で、仕方なくそのまま通したという話が残っているそうです。
カズが残してくれたもの
カズは人生の大半を韓国で生きました。
しかし、祖国である日本を慕い、日本人であることの誇りを決して失いませんでした。
カズはいつも和服にモンべ姿で通し、端午の節句には鯉のぼりを揚げていました。
日本の支援者からもらった日の丸の小旗を見て、涙をこらえきれず泣いたそうです。
カズの願いは、いつかは祖国へ帰ることでした。
しかし現実に、韓国には自分をオンマと慕い求める子供達がいる。また、『38度線のマリア』という美名を贈
られ生きてきた自分がそこにあったのです。
そのような中で、自分にはあと僅かしか余命がないと悟ったとき、抑えがたい願いが溢れました。
その一つは、自分の本当の戸籍を得ることでした。
満洲で非業の死を遂げた母の姓「望月」になることでした。
この願いは、法律的に非常に困難な内容でしたが、日本の支援団体の協力と支援によって叶えられました。
そして、もう一つは「富士山の見えるところで眠りたい」という願いでした。
昭和58年(1983)11月12日カズはソウル市内の自宅で脳内出血のため倒
れ、56才で亡くなりました。
11月14日、多くの関係者の見守る中、カズの葬儀が行なわれ、ソウル市郊
外の一山公園内の基督教墓地に分骨が埋葬されました。
同年、天皇陛下から、カズに勲五等宝冠章が授与されました。
昭和60年(1985)4月7日、多くの支援者の尽力により、静岡県富士市瑞林寺墓地の、富士山を正
面に望む所にカズの墓が建立され、分骨埋葬式が行なわれました。
当日は、日韓の支援者やカズの遺児達を含めた関係者百五十人が参列しました。
参加者は皆、口々にカズの偉業を讚えました。
韓国在住の遺児達はカズが生前よく言っていたという言葉「韓国に望月カズという日本女性がいて自分と
同じ境遇の子供達と韓国に暮らしていたことを残したい」を紹介し「そのオンマの気持ちを実現してゆきたい」
と語りました。
富士山を望む墓に眠る望月カズ、日韓の交流・共鳴の歴史に大きな足跡を残し、今も私たちに希望と
感動を与え続けています。