韓国の歴史について学んでいます。
ご紹介しているのは、韓国語学校で韓国歴史を教える教師用の内容です。
教師が教える学生の対象は、海外に住む韓国人の小学校高学年(4~6年生)となっています。
原文は韓国語ですが、日本語に私が訳したものを載せています。
第二章 三国の発展
■ この章を理解するために
1.古代王国の形成
私たちは三国時代と言えば、高句麗、百済、新羅の名前を上げます。
三国時代に伽揶が共存していたので四国時代と呼ばなければならないはずですが、どうして三国時代と言うのでしょうか?
古代王国の体制を備えた国だけを三国と呼んだからです。
それなので三国時代という用語は伽揶が古代王国の段階に到逹することができなかったという歴史的事実が含まれているのです。
古代王国は中央集権体制を備えた国です。中央集権国家と呼んだりします。
中央集権と言うのは、中央が地方まで支配するという意味で、中央集権国家になるためには王権の強化が必ず必要です。
中央集権国家では王が地方官や軍隊を派遣して地方を治め、地方の族長を中央貴族として従属させて官僚制や身分制を整備したものです。特にこの時、思想の統一が必要でした。三国は当時、韓半島に伝来した仏教を支配理念としました。
権力が中央に集まれば、その力は大きな力になります。
古代国家ではその力を領土の拡大に使いました。
それで三国は絶え間ない領土拡大の戦争をしたのです。
『三国史記』に戦争の記事が多いのはこのためでした。
一方、伽揶は中央集権を成すことができずに連盟王国の段階にとどまっていたので、経済力や文化的能力が優れていましたが、うまくその力を使うことができず、結局、百済と新羅に分割占領されてしまいました。
2.三国時代の展開過程
三国の中で一番先に中央集権体制を成した国は高句麗でした(二世紀)。
そして百済(三世紀)、新羅(四世紀)が後に続きました。
このような差は当時の文化の中心地が韓半島の西北部だったからでした。
新羅は地理的に東南側に偏ってあったため、文化の成長と政治の発展が比較的に他の国に比べて遅れていました。また、新羅には新羅の議会制度(화백제도)や花郎道(화랑도)で見るように伝統的な要素がたくさん残っていました。
三国は四世紀に新羅が古代王国を成立させてから本格的なしのぎを削る争いの時代に入りました。
三国の争いにおいて漢江流域は要所となる場所でした。
三国の争いの要(かなめ)となる重要な地であり、農産物の豊かな地だったので、この地域を掌握した国が争いにおいて有利に立ちました。
漢江流域は、ほぼ四世紀には百済、五世紀には高句麗、六世紀には新羅に属していました。
このことは三国の主導権の掌握と関連しています。
四世紀に、まず百済が力を振るっていました。
近肖古王(근초고왕)は漢江流域と馬韓地域を併せ、高句麗を撃破した後で、遼西(요서)、 山東(산둥)、日本まで進出する海上王国の様相を見せました。
五世紀は高句麗の時代でした。
広開土大王(광개토대왕)と長寿王(장수왕)は満洲と韓半島北部を掌握して東アジアの覇権を握っていました。
これに対抗して新羅と百済は羅済同盟を結んで対立しました。
しかし、六世紀になると新羅が大きくなりました。
智証麻立干王(지증왕)、法興王(법흥왕)、真興王(진흥왕)と受け継ぎながら国力を育てた新羅は漢江下流を占領して主導権を取ったのです。
七世紀は三国統一期です。
新羅は中国の統一王朝唐と羅唐同盟を結んで百済と高句麗を順に撃破しました。
しかし、三国統一は大同江(대동강)から元山湾(원산만)に至るまだ限られた統一でした。
高句麗の昔の地には渤海(발해)が成立していたのでした。
南北国時代の始まりです。(全文訳)
日本語訳は、これまで通り指導書の内容です。
ただし、このページの画像は違います。韓国ドラマから引用しました。
韓国のドラマは歴史性よりもドラマ色が強いですが、史実を少しでも知って見るとより多くのことが学べると思います。
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